なななのゆるゆる翻訳

自分が翻訳したいと思った歌詞・本だけをゆるく訳してます。

死にたいけどトッポッキは食べたい 付録:憂鬱の純機能【修飾語がない人生】

 好きだった作家の新作がもうすぐ会社から出る。担当チーム長は2月の初めに作家と一緒にブレインストーミング兼会議をすることにしたので時間になったら参席してくれとおっしゃった。どうしても作家が好きな人だし20代だから若いアイディアをやみくもに頼むとおっしゃった。

 会議に参与するのは面白くうれしいことだが「若い」アイディアという言葉にのどが詰まるような気分になった。負担を感じたせいだ。いいアイディア、ほかの人が考えられなかった斬新な意見を出さなければという負担。私がいつも抜け出せなかった単語の中の一つだ。

 友達にこの話をしたらなぜこのようなことには必ず「若い」がつくのかと言った。年齢から出るアイディアはないのかと、ただ若者だろうが専門家だろうがそんな修飾語を抜きにして何人かで集まって言い合えばより良いアイディアがでてくるんじゃないかと。その通りだ。私たちの前にはいつも修飾語がつく。私もやはり例外ではない。若いということは変えることは出来ず限定的な修飾語だが、私が言いたいのはその修飾の中に込められた意味や期待だ。学歴や専攻を例に挙げることができる。文創科卒業生はみなレベルの高い文章を書き英文科はネイティブレベルの会話をすると考える単純な考えはかえって当事者たちの実力に立ちはだかる。負担に感じるためだ。

 私が文創科ということを明かしたくない理由でもある。姉もそんなことを言った。ソウル芸大ボーカル専攻者たちはうまかったら当然に思われ下手だと無視されると。いつも評価の視線を耐えなければならないと。多くのものがそうだろう。だから好きで選んだ専攻を楽しむことができず、本人の実力に自信がない彼らはやたら穴を探して隠れる。

 今日フェイスブックに登録した学歴と職場を消した。私の前につく修飾語を消したかったからだ。それなりの学校と職場を提示することは私に一時的な優越感を与えてくれたが、劣等感もやはり与えた。専攻が文創科なのに文章を書けない私自身に対する非難と職場が出版社なのに本をよく知らない自身に対する嫌悪。しかしこんな修飾語が一部影響を及ぼすとはわからなくても個人をすべて説明することはできないということは知っている。会社で会った人の中で私が最も嫉妬した(絵も上手で文章もうまく感受性も豊かできれいで愛らしい)女性社員は地方大出身だった。そして恥ずかしくも私は私が感じていた劣等感を私より低いその職員の学歴一つで挽回しようとした。学歴は思ったよりたいしたことないねというよくない考えをして、どうにか優越感を感じようと。

 これを頭では本当によくわかっていながらも、今でも私につけられた修飾語だけで私を評価する多数の視線を感じる。そして私もやはりその視線から抜け出すことはできない。嫉妬した人が私より低い学歴だった時感じた安心感、関心のなかった人の高い学歴を聞いて突然その人が違って見えたこと。そしてその乖離感の中で私自身を自責した日々。心から変わりたい。いや変わることができると信じている。私は今会社で親しくしている彼らの学歴を知らない。そして特に気にならない私自身を感じる。全部ではなくても少しずつ変わっている。変わらない部分だけ見て辛くなるよりは変化する部分に焦点を合わせ希望を抱かなければ。多くの人々がどんな修飾語もなく自信をかっこよく堂々と感じる日が来たらと思う希望を。