なななのゆるゆる翻訳

自分が翻訳したいと思った歌詞・本だけをゆるく訳してます。

死にたいけどトッポッキは食べたい 付録:憂鬱の純機能【共にする】

 淡々としたい日があった。いや切実だった。単純で軽く冷たく無感覚になりたかった。感情移入は私にとって大きな主軸で日常を覆うほど巨大な影だった。ドラマを見たり映画を見るとき、歌を聞いたり写真を見るとき、誰かの話を聞いたり私自身の話に耳を傾けたとき、たやすく心が傾く。プンクトゥム(極めて個人的な経験に照らし合わせて受け入れるという意味で)のように脈絡なく突き刺す、慣れてうざったい自覚だった

 だから抱擁の囲いに包まれ安全に過ごした。その時は自ら入ったと思ったが、結果的には閉じこもったざまだった(閉じ込められたと表現したくはないが)。幸せになると思ったがそうではなかった。毎回私が間違ってなかったと確認しようとして限定された愛情を渇望した。私は何故こうなのかという口癖で生きてきて世界と二年に対する冷笑が深くなった。冷たくなりたかったのに本当に冷たくなると世界が凍り付いた。どこに手と足を置いても冷えて痛かった。腹が立ち悔しかった。

 今考えると当然だったと思う。私だけの垣根を作り、誰にも会わず、分けなかったことは、結局凍り付いた城を立てることと変わらないのではないか。人々の冷たい面にだけ過剰に執着して人生にどんな暖かさもなく冷気だけ残った。

 手に余る感情の種類が刻一刻と現れるたびに息が詰まった。解消の方法が必要だった。その時初めて病院を探した。以前は慣れていた吐き出すことが難しくなった状態ということを感じることができた。しかし一度始まると水があふれるようにこぼれ出てきた。一人とだけ分け合えばいいと思ったが、違った。

 その時から家族に友達に同僚に知らない人に私を吐き出し息を吐き出し、彼らの話を聞きながら新しい息で満たした。そんなふりと真似事ではなく真心を尽くしてそうした。自意識と憐憫でいっぱいに満たされた感情の結晶が少しずつ均衡を取り戻す気分だった。

 結局まともに生きていく方法は共にすることだと、すごく久しぶりに家族と旅行にきた今よりいっそう感じる。共にすることは利他心で、結局利他心は利己心を救援する。私から始まり私たちで終わるから。私と共にしようとする君に感動し、私をわかってくれる君なしではだめで、共にすることを選ぶようになるから。共に誤解して分け合って共感して遠ざかりながら現在を生き抜くことになるから。それが暗い息でいっぱいの世界で安堵の息を吸える方法ではないかと思う。