死にたいけどトッポッキは食べたい【「私」という存在】
「合理化をなぜ否定的に見るのですか?」
成熟した防御規制のうちの一つです。
自分の傷や決定に対して理由を探すから。
私自身を深くチェックすることはいつだって辛い。否定的な感情に包まれたときは余計に。なんていえばいいだろうか。ゴミを踏んでいることを知っているのにあえて手につかんでゴミであることを確認する気分。今日がまさにそうだった。無性に駄々をこねたかった。頼りたくて憂鬱になりたかった。今私に憂鬱は最も簡単な道で、慣れていて、近い情緒だから。毎日同じ時間に起きるように固まった習慣だから。
時間が経てば大丈夫になるだろう。いや、すべてのことは流動的だから人生も波のように飛び跳ねてよくなって悪くなってを反復するだろう。今日憂鬱なら明日幸せになって、明日幸せならまた憂鬱になってもいい。私を愛すようだけにはしよう。
私は私でしかない存在、それだけでも特別な存在、私が一生の間面倒見続けなければならない存在、それゆえ愛情をもって暖かく一歩ずつゆっくりひとつひとつ指摘しながら助けてあげなければならない存在、しばらく息を吐きながら休んだり時にはむちうちながらよくなっていかなければならない存在、私をチェックしてみるほど幸せになると信じる。