なななのゆるゆる翻訳

自分が翻訳したいと思った歌詞・本だけをゆるく訳してます。

死にたいけどトッポッキは食べたい 付録:憂鬱の純機能【人生の課題】

 頭の中に入れたいいい文章はいっぱいにあふれているが、いい人は見付けるのが難しい。いい人(私がなろうとする理想的な姿)に変わる過程が難しいからだ。生まれ持った天性であればどうしようもないと言えるが、考えや態度もやはり自分から派生して蓄積されるので天性くらい変えるのが難しい。いい言葉と文章を知っているにも関わらず行動に移すには3日と続かない理由だ。文章と行動の性質はとても異なるものでもあり、文章は隠すのが簡単だが無意識に飛び出す行動は隠すのが難しいから。

 大多数の人が言葉と行動が一致する人生を送ることは出来ない。どれほど知識に触れて振り返ったとしても、遂行するように態度を検閲することはできないのでたちまち元通りに戻ってくる。だから正しくできなかった人生の態度に気づいてただ行動に変化を証明する彼らを尊敬する。

 正しい言葉遣いをする彼らの文章を見てよくわからない不快感を感じたことはこのような不調和のせいではないだろうか。言葉と文章ほど行動も一致する彼らを見たことはなかったから。バカみたいなのは文章と行動が一致する人々に会っても不便だということだ。私が小さくなる気分で、その人たちに私の値打ちのなさがばれて無視されるような気分になる。だから純粋で単純な彼らにより惹かれるようだ。

 私は今あいまいでよくない状態だ。私の天性は憂鬱でかっこ悪い。考えが深かったり洞察力があるわけでもない。上手なのは反省と自虐だが。これも一瞬で終わるだけで変化に続くわけではない。明らかに頭ではわかっている。しかし簡単に習得した知識が簡単に全身に浸みてストックされるわけがない。フェミニズムを応援して人種差別反対を叫びながらも中国人を見ると体を縮ませたり、美しくないレズビアンを見ると不快だという’体の反応’を起こす私の姿。とてもかっこ悪くて矛盾的な。

 しかしこんな私の姿を自虐して嫌悪したとしても変わることはないということはわかっている。私はこのように不足した人間だということをただ受け入れて、毎回やってくる反省と省察の機械、知らなかったことを知った時の恥ずかしさと喜悦を感じながら1mmの変化に期待するしか。

 結局私は私がうらやましいと思う人のそばに一気に近づくことができない。そのようになることもない。私がかっこよくなる道はただ今の私からとても少しずつ遅々としてよくなるだけだ。判断を留保して感じられ強要はしないながらも、私が感じる数多くの判断と感情を受け入れること。自責したからと言って一瞬で賢くなるわけでもないから。

 多分人生は受け入れる方法を学ぶ過程だと思う。受け入れたり手放すことは人生の特定の時期にだけ取り出す態度ではなく一生生きていきながら練習しなければならない課題のような感じがする。ありのままのかっこ悪い私を受け入れてこそありのままの、しかし努力しようとするかっこ悪い相手もやはり受け入れることができる。私に加わる過度な自己検閲は相手にもそのまま与えられ、終わりなく相手を評価して自分の基準の中で束縛させようとする。

 どうしようもない人間はさておき、誰でも行違う部分があるということを受け入れ、一旦自分から受け入れなければならない。とるに足らない私にこれ以上期待しないようにしなければならない。ただ一日に一度ずつ何かを知ったり悟ることを祈るのみ。